優香ママ登場。

 魔城。この空間に足を踏み入れた者は誰もがそう思うだろう。足下に散らばるガラスの破片らしき物は、行く手を阻むトラップだ。また、部屋中には鼻をつまむほどの異臭が散開しており、抵抗のない人間ならば、そのあまりの臭いに酔ってしまいそうだ。更に右を見れば肉片が散らばっており、その肉片の周りには朱い汁が付着していた。そして、そこで怠そうに眠っているのは、朱い汁をだらりと垂らす―恐らくあの肉片を切ったのだろう―包丁を不器用に持つ女性だった。
「何やってるんですか、舞さん」
 春は鼻をつまみながら、怪訝そうな顔でその女性に訪ねた。そう、この魔城は優香の家だ。足下に散らばるビール瓶の破片。部屋中に散開する酒の臭い。それでも自分で料理を作ろうと思ったのか、キッチンに無造作に散っている牛肉。それに格好付けて見たのだろう、その牛肉は赤ワインで濡れていた。
「あ、春くん? いらっひゃい〜」
 春の言葉で目を覚ました舞は、手に持っているワインで濡れた包丁をひらひらと揺らしながら春を歓迎した。
 ハヤトと椿と別れたあと、春は空に昼食の材料を買うように頼んでから、優香と二人で優香の家に昼食を作りにきていたのだった。
「もう、何やってるのよ、お母さん。こんな時間から酒なんて……」
「別に良いらない〜? お酒って幸せな気分になれるのよ〜うへ、うへへ〜」
 優香が舞の相手をしている内に、春は部屋中に散らばったビール瓶を手慣れた手つきで片付けていた。
(ホント、あんな大人にはなりたくないよな〜……ん?)
 ふと、春は一本の空のビール瓶を見つけた。そこにはいかにも豪華そうなラベルと、安物とは比べものにはならない香りが漂っていた。
「こ、こここ、これって、シンフォニア大陸直送『コントラクト四六』!? な、何でこんな高級酒が優香ん家にあるんだよ!?」
 コントラクト四六。春達が住むマナビジョン大陸の北に位置するシンフォニア大陸でしか取れない葡萄で作られた、知る人ぞ知る超高級酒だ。何故、春がそれを知っているかは置いておき、このコントラクト四六はハヤトの家ならともかく優香の家にはとても不釣り合いな物だった。
「あ、それ〜? あはは、それはね〜。なんとー! ハヤトくんが持ってきてくれたのれしたー!」
(やっぱり、ハヤトか……)
 春はハァ、とため息をついた。
 実はハヤトは女の子には片っ端から声を掛けているものの、本命は優香であり、優香に振り向いて貰おうと日々アピールに励んでいるのだ。事実、今日の帰り道でも優香を昼食に誘ったり、それを春が作ってくれるからと断ると、春が作る料理は上手いから俺も行くと言いだし、絶対来るなと優香が念を押すとショックで倒れそうになったりと、とにかく忙しかった。しかし、まさか優香の母親である舞を懐柔しようとするとは……中々賢い事をするな。と、春は他人事のように感心した。
「だーかーらー! お母さんも春ばっかりにやらせずに自分でも片付けてよ!」
 酒造工場より酒の臭いが充満したこの部屋で、優香は絶叫した。